「感性的な美」vs.「理性的な美」?

「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Yan Lauria の投稿
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もとちゃ美術館の最大のポイントは、高度(Z座標)または進行方向に対応して作品を発表年の順に並べることに加えて、進行方向に直行する第2の評価軸を導入できないか試みたところにあります。

最初は多神教的な「ウジャトの目」と一神教的な「プロビデンスの目」の対比というのが、最初の着想だったようで、これを右目と左目(または左脳と右脳?)のどちらに対応させるかは頭が痛くなるのでやめておいて、その後、Heinrich Wolfflin/ ハインリヒ・ヴェルフリンとGustav Rene Hocke/ グスタフ・ルネ・ホッケという2人の類型化を組み合わせたものが、もとちゃ美術館の入り口に掲げられている。

これでいくと

【進行方向に向かって左】   進行方向に向かって右】

立体的

動的

多様性大

非幾何学的

(狩猟民族的)

(多神教的)

平面的

静的

多様性小

幾何学的

(農耕民族的)

(一神教的)

 

それで、そういう尺度でもとちゃ美術館の中を歩いて回ったんですが、どうもこの通りには並んでいない^^::。

それで、今は「感性的な美」vs「理性的な美」という対比でもう一度見直してみようと思っているところです。

「美」というのは「感性的」なものであって、「理性的な美」なんてありえない気もしたのですが、ピラミッドみたいに、一神教的世界観の元では「理性的な美」というのがあるような気もしてきました。

感情にも悲しみや怒りや笑いという本能的な感情以外に、一神教的な幸福感みたいなのは、本能とちょっと違うところにある気もします。この辺りは、私には理解しがたいところがあるのですが、欧米の近代史の中で、論理的にすべてを解釈しようという強烈な世界観があって、これが文明の高度化という大きな成功に繋がったわけなので、それと同じ尺度で「理性的な美」というものもあるのではないかと。

皆さんは、どのように考えられるでしょうか? とにかく、これを決めないと、新しい作品を追加することができないので、みなさんもぜひアビスのもとちゃ美術館を訪れて、考えてみてはどうでしょうか?

 

 

添付 Snapshot_001.png
Yan Lauria への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Yan Lauria の投稿

この横軸というのは、なにか立証したい仮説があってこそかもしれない。ここでは社会的発展や文化的・宗教的な違いが絵画とどう関連しているかが分かるようにしたいから、こういうことを考えたわけです。それで「感性的な美」vs「理性的な美」と関係があるような、ないような、というのが

「写実的/ Photo Realistic」vs「Symbolic」

写実的な反対語をSymbolicとしていいのかよく分からない。輪郭線で特徴を描く、つまり、地面に棒で絵を描けばそうなる。それで他人にも伝わる。キティちゃんの絵はなぜだか誰もがネコの絵だと思う。文字の起源でもある。人間はそういう能力を元から持っているのだろう。

絵を描くのに時間が節約できる。人間は対象物を記憶するのに、こういう特徴を抽出して記憶するのだろうか。

科学的アプローチが文明的な成功に直結したルネサンス以降の欧州では、絵画が徹底的に「写実的」に偏った。透視法や解剖学が絵画の基本となっていた。それに対し、写真、映画の発明によって、写実的であることは芸術として劣るとされて前衛芸術が大流行した時代もある。

Photo Realisticな絵と、Symbilicな絵が、感性的な美と理性的な美に関連しているようでそうでないかもしれない。記憶する手段としてSymbolicに処理するだけのことかもしれない。2次元キャラクターをこよなく愛するのは、単に感性豊かな思春期の刷り込み現象かもしれない。

とにかく、「Photo Realistic」vs「Symbolic」という評価軸は、科学的アプローチの成功と写真・映画の発明の2つの影響を受けたということ以上に、文化的・宗教的にどうなのか、仮設をうまく立てられない。

添付 neko.jpg
Yan Lauria への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Shinobar Martinek の投稿

ルネサンスのリアリズム指向について言えば、古代ギリシャ彫刻の影響は決定的だと思います。古代ギリシャは特異ですね。それで世界に影響を残してる。

あとはカメラオブスキュラの発明も大きかったかと。いっとき著名な画家は写真を参考にしていたようですね。

ヨーロッパ美術で写実主義への反発は、ピカソのアフリカ芸術発見まで待つことになるのかな。

Shinobar Martinek への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Yan Lauria の投稿

古代ギリシアは彫像しか残っていないし、古代ローマは彫像以外に、ポンペイのフレスコ画はけっこう享楽的でもあるので、清廉潔白なのは古代ギリシアだけってことですかね。ギリシア神話自体は享楽的なところもあるので、果たして真実はどうだったんでしょう?

奴隷のおかげで優雅に暮らせていて、それで理性的なライフスタイルを楽しむことができたのかもしれません。あるいはアトランティス超古代文明の末裔の影響とか^^;;

洞窟芸術、アポリジニ・アート、アフリカン・アートを見れば、人間本来はSymbolicな表現もPhoto Realisticな表現も、両刀使いだったところ、

西欧の芸術がバロック、ルネサンスから印象派まで、あれだけ長く”Photo Realistic”に偏り続けた方が不思議なぐらいです。もし写真機が発明されなければ、どこまで続いたんでしょう? 多神教であるギリシア神話を文化の基礎としていた古代ギリシアの芸術はもっと多様性が豊かだったかもしれないのに、キリスト教世界は古代ギリシアの発掘物だけ見て清廉潔白と信じて手本にしちゃったとか?^^;;

Yan Lauria への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- 白鷹 いず の投稿

先日SLで、素子さんの美術館での講義のとき、ミュシャの代表作として「ジャンヌダルク公演ポスター」が展示されていましたね。

ミュシャと言えば華やかなリトグラフの装飾パネルやサラの公演パネルを選びそうなものなのに、敢えてジャンヌダルクを選んだ理由は、あの絵が一見してリトグラフのポスターに見えるのに実は油彩で1点物だからかな?と思いました。

実際専門書の中にもジャンヌダルクの公演ポスターをリトグラフとして紹介している(間違った)本もあるくらいで、絵のサイズといい形といい油彩なのにリトグラフっぽくてかなり紛らわしいのですが^^;

そういった意味ではミュシャの作品の中ではある意味「個性に特化した作品」と言えなくもないです。そこに着目して敢えてジャンヌダルクを代表作とされたのではないかと推測しました。

つまり、

美術品を振り分ける際に、作品自体の仕様を取るか、バックボーンも考慮した上で敢えて作品の本筋に触れるかで分け方が違ってくるのかもしれません。「違った側面から見方を変える」というやつですね^^;

そうなると、

彼女の中で培われた判断基準は生涯それまで蓄えたであろう膨大な知識からきたものでしょうし、それを他者が周到になぞろうとしても不可能な気がします。

なので、

美術館の真相を知ろうとされる強い気持ちをお持ちのヤンさんだからこそ、「感性的な美」vs「理性的な美」の対比という新たなタイトルで仕分けできるのでしょうし、そういった判断基準は美術館を継承されたヤンさんが「これで良いはず」と思われたことが、それが全てで良いのではないでしょうか^^

 

次の講義、楽しみにしています^^/ 

白鷹 いず への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Yan Lauria の投稿

タネ明しすると、最初の頃は、私とコメットさんとで作った近代博物館のすぐ上にもとちゃ美術館があり、テキスチャの読み込み時間を考えて、2つの美術館は作品が同じで、並べ方だけが違うものでした。できるだけ多くの画家をカバーできるよう、1人の画家の一つの作風につき1作品と決めていたので、作風が何度か変わったピカソは4作品選んでありますが、たいていの画家は1作品だけです。

その選び方は、代表的な作品、つまり、Wikipediaに載っている作品の中でいかにも代表的に扱われていそうなものを意識的に選んでいます。自分の好みで選ぶと、きれーなねーちゃんに偏ってしまって、科学技術や社会とのインタラクションなど分からなくなってしまいそうだからです。

とはいえ、単なる教育施設でとどまらず、ルーブル美術館を超えたいという欲もありますから、自分の好みを抑えつつ、こちらの方が来場者がもう一度見に来たいと思うんじゃないかと思える絵を選んでいる場合も少なくありません。

もとちゃ美術館には私が選ばなかった画家の作品が数多く追加されていますが、ミュシャについては、スラブ叙事詩を知らなかったからか、私の選んだジャンヌダルクで構わなかったのかもしれません。今思えば、出生作の「ジスモンダ」ポスターを選ぶべきだったのでしょうが、Wikipediaの中でジャンヌダルクの方が、はっと驚くような表情としぐさが感情表現豊かで、それ以前の作品にはなく際立っているように思えたからかもしれません。

リトグラフか油彩かはネット上で見る限り、私には区別が付かなかったので、あえて油彩を選んだわけではありません。自分の好みで選べば、「四つの夜―月」か、いずさんがミュシャ展示ポスターに使ったミュシャの娘の絵(The Slav Epic)でしょう。堺ミュシャ館でThe Slav Epicを目の前にした時は盗みたいという衝動に苛まれました^^;

「理性的な美」vs「感性的な美」という尺度について、私自身が「理性的な美」を理解できている自信がないし、美術館全体で「感性的な美」に偏っている恐れがありますが、もとちゃさんは結構、「理性的な美」を追加している気もします。

ということで「理性的な美」っていったいなんなんだろう?

Yan Lauria への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Shinobar Martinek の投稿

いずさん、先日はミュシャ美術館の解説ありがとうございました。解説がなければたぶん、前を素通りしていたと思います。

美術に限らず、たとえばお笑い芸で、共通のバックグラウンドがあれば笑いが分かるし、そのバックグラウンドが無ければ何が笑えるのか分かりません。解説なしに自分が見て楽しいものだけピックアップするか、解説を聞いてその楽しさを発見するか、それぞれだと思います。

私は堺市在住です。ミュシャの世界最大のコレクションのあるところ。彫刻やアクセサリなどめずらしいものも観ることができます。油彩画は数点ありますが、いずれもフランスやアメリカでフランス語読みの「ミュシャ」として活躍していたころの作品です。チェコに帰りチェコ語読みの「ムハ」と名乗ったころの作品群はありません。SLでのミュシャ美術館と、いずさんの解説はとても有益でした。

Shinobar Martinek への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- 白鷹 いず の投稿

Shinobarさん、ありがとうございます^^/

 

自分にしても、最初は華やかなリトグラフによる装飾パネルの、特に美人画のみに目がいってしまって、スラヴ叙事詩に関しては、当初の予定では好きな2作品をチョイスして天井から吊るすぐらいの展示でいいかな?・・・などと思っていましたから^^;

だけど、絵のバックボーンを知るうちに、これはやはり20点すべてを網羅すべきであり、ミュシャの真骨頂は実はこっちにあるのだと悟りました。それで急遽地下室を増築してコーナーを設けた次第です^^

来年20作品が日本で展示されれば、話題になって多くの人がスラヴ叙事詩に興味を持つでしょう。そして実際に足を運んで現物に触れた時、少しでもバックボーンを知っていれば見方が百倍面白くなることを、とりあえずSLのユーザーの方々に伝えたかったのです。

 

堺のアルフォンスミュシャ館には、死ぬまでに?一度は行ってみたいと思ってます(ぉぃ
堺には貴重な彫像やサラのブレスレットなどもあるそうですね。
スヴァンの美術館にもゾディアック像を飾ろうと試みましたが、いかんせんSLの造形は専門外で、このテクスをそれらしく見せるような工夫はないものかと模索中です^^;;;(正面からしか見えないようにするとか(ぉぃ)

 

自分は東京が地元なのでスラヴ叙事詩来日の祭には最低3回は見に行くつもりです^^/

 

Yan Lauria への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- 白鷹 いず の投稿

うは!深読みしすぎでしたか^^;

それでもジャンヌダルクという作品はそういうもの?なので、これを選ばれるとは何か見えない力が作用してるとしか(ぇ

一般的に認知される「らしい作品」のチョイスってかなり難しいですよね^^、

 

 

四つの星の「月」ですね。するどい!自分的にはもしかしたら「月」の彼女と同じモデル?(というか顔が似ているのですが)四つの花の「バラ」がAKBの塩対応のパルルにも似てて(ぉぃ)現代にも通じる美少女なのでは?なんて思っていますが^^;

ちなみにもっとも好きな絵は四芸術の「音楽」です^^、印刷して事務所に飾ってますから^^;

 

 

確かにヤロスラヴァは時代を超えてその美しさが評価される女性だと思いますよ。レトロな映画女優の写真と見比べても彼女はまるで引けを取らない美女ですね。しかも当時のリトグラフに触れてポスターが放つオーラに触れてしまえば、盗みたい衝動にかられるのも無理はありません(けど、それをやったら人生終わっちゃいますからね~ww)

 

 

脱線しまくりですみません^^;;;;

とにかく素子さんの美術館の真意を他の誰よりも理解されている第一人者として、ヤンさんの思われるように進めていくのがベストであり、彼女もそう望んでいるのではと勝手に思うのですが、いかがでしょうか^^

 

Yan Lauria への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Shinobar Martinek の投稿

もとのテーマは「感性的な美」vs.「理性的な美」でしたね。う〜ん、分かりません。

たとえばティツィアーノの『聖愛と俗愛』って、どちらなんでしょう?

https://en.wikipedia.org/wiki/Sacred_and_Profane_Love

Shinobar Martinek への返信

Re: 「感性的な美」vs.「理性的な美」?

- Yan Lauria の投稿

愛にも「理性的な愛」と「感性的な愛」があり、喜びにも「理性的な喜び」と「感性的な喜び」があり、幸せにも「理性的な幸せ」と「感性的な幸せ」がありますよね。

それで行くと「聖なる愛」と「俗な愛」はどちらも理性的な尺度での愛のように思います。絵を見ても理屈っぽい、お説教じみてますよね。

芸術的表現というのは、まずは誰かの作品やパフォーマンスを見聴きして感動する自分という体験が先なのか、それとも自分の作品やパフォーマンスを誰かから賞賛されるという体験が先なのか、よく分からないけれど、感動する体験を持つ自分が賞賛される快感を一度体験すると、再び賞賛されたい、もっと賞賛されたいと思う。

そのために、自分の感動する体験/賞賛される体験を元に、意図的/計算し、模倣又は改変し、人を感動させそうな作品・パフォーマンスを生もうとするが、ひとたび作品・パフォーマンスとして形を成すと、意図どおりの美もあれば、意図しない美も表れることがある。つまり形にするとそれが一人歩きして、意図どおり、または意図しない価値が生まれればそれが生き残り、そんな価値のない駄作であれば忘れ去られる。

そういう表現者と鑑賞者の相互作用としての芸術のプロセス自体は「理性的な美」か「感性的な美」かということとは無関係な気がする。意図した/計算した美が理性的でもあれば感性的でもありうる。

とりあえず、「論理で考える美」か、「本能で感じる美」というのが、そもそも人間にとって存在するような気がしますが、どうでしょう?