バーチャル博物館製作メモ(その12)


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バーチャル博物館製作メモ(その12)

- Yan Lauria の投稿
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言葉にできないこと

ハインラインの言葉に「どういうわけか、物事は文章に書くと決着がつく」(宇宙に旅立つ時)というのがある。ところが、書く、又は、話そうとしても、頭に浮かんだことがすべてそのまま自動的に文字になって出てくるとは限らない。(私の友人に、まるで頭に浮かんだことを自動的に口にしてしまうとしか思えない厄介なヤツがいるが・・・)。

皆さんの中には、人間がものを考えるのは言葉を使って考えるものと思っている方はいないだろうか? たぶん半分無意識でひとり言のように言葉で自問自答していることが多いのかもしれない。しかし時として簡単には言葉にできない場合もある。私の場合はむしろ簡単に言葉にできない場合の方が多い。もやもやしている頭の中の何かにむりやり言葉に当てはめようと四苦八苦する。なんせ子供の頃は言語障害だとよくからかわれたぐらいだ。

今でもプレゼンする場合はひととおり話す内容を書いておく。そうしておけば、あとは書いた内容を無視して話せる。実は私も、今のように一生懸命文章を書いている状態、あるいは一時間後には人前で話さなければならない時は、頭の中でも書かなければ、話さなければ、というイメージトレーニングモードにスイッチが切り替わっているらしい。それでまあ人前でなんとか話せるようになる。

たぶん言語中枢の発達には個人差、性差もあるだろうし、普段から言語スイッチを入れっぱなしにしているかどうか、あるいは鍛え方の違いもあるのかもしれない。

だがそうだとしても、頭の中に浮かぶものは必ずしも文字で書けるとは限らないはずだ。すべて文字で書けるようなら、この世に音楽も美術もダンスも必要なくなるが実際にはそうではない。外界から頭に入ってくる情報も、言葉より映像の方が早いという。広告でもプレゼンでもアピールするにはビジュアルにしなきゃいけないのもそのせいなんだろう。

言語を不自由なく使えるようになるまでに多くの時間と訓練が必要だったように、絵画も音楽演奏も大変な訓練がいる。そうやって訓練を積んだ人には絵も音楽も言語と同じように頭の中で扱えるようになるのだろうか?

そう考えた場合、仮想空間をデザインしたりキュレーティングしようとするなら、言語ではなくイメージ(「印象」の意味ではなく「映像」の意味)で表現しようとするスイッチを入れておくことが必要だろう。

(イメージの文法)

人間は言葉を覚えるのは生まれたあとだ。だから言語は国によって異なる。しかし目に見えるイメージを処理する能力は遅くとも生まれて早いうちに頭の中に配線されてしまうらしい。だからといって映像はカメラのようにそのまま頭の中に蓄えられるわけではない。

今、目の前に皆さんの部屋が見えている。そこで目をつぶってみよう。そこで部屋の中の様子を思い描こうとしてみる。普段から見慣れているはずの風景だか、ちっとも思い描けない。記憶に頼ってあそこが本棚、こっちが窓、それから時計があって・・・と考えなければならない。そこで目を開けてみる。これはいつもの自分の部屋だということが一瞬で分かる。

これは不思議だ。頭が悪いんだろうか? 町を散歩する。新しい散歩コースを選ぶ。一度通ったことのある場所に来れば一度見た景色だと思い出す。ところがいつもとは逆向きに歩くと見覚えのない景色に見えて戸惑うことがある。どうも、人間がイメージを記憶する時はある種の変換を行って記憶していることが関係しているらしい。

言葉にも文法があるように、イメージにも文法がある。垂直と水平が好きであり、そこからのずれると違和感を感じる。斜めから見たビルは映像的には平行四辺形や台形の集合に見えるはずだが、ちゃんと直方体として記憶している。遠方の物と近くの物は、見かけの大きさは違っても、本来の大きさとして認識できる。真昼間の景色と夕暮れ時の景色、雨の日、雪化粧の景色で見え方が違うはずだが同じ街や風景であることが分かる。つまり人間は3Dモデリングしたりマッピングした情報を記憶に蓄えているのかもしれない。

普通のビルは目に見える2面から裏側も想像できてしまうからなのか、それほど反対側を見たいとは思わないが、変わった建物だとどうしても反対側を見たくなってしまう。男なら女の子がミニスカートをはいて立っていれば、その見えない領域をどうしても見たくなってしまう。ところがロングスカートだとそれほどは思わないし、自動車の底面をどうしても見たいとは思わないのは、イメージを3Dモデリングして記憶に蓄えるうえで重要でないと思うからだろうか?

色には鋭敏に反応する。特に赤や黄色には敏感である。しかも感情に影響を及ぼす。形状を知覚するよりも色を知覚する方がだんぜん早いらしい。

ここでイメージを四角いフレームで切り取ってみよう。額縁もテレビも窓から見る景色も、垂直に立った四角いフレームで切り取られている。ポロックの絵は床に寝かせたキャンパスにペンキを垂らして描いているくせに、飾るときは垂直に立てる。地形の3Dモデルを床に置けばジオラマだが、壁に飾ればアートになる。それはさておき・・・、

フレームで切り取る場合、切り捉えた映像のバランスが悪いと気持ちが悪い。左右のバランスがよければいいとは限らない。対象物が左右に散らばっているとか、前面の人物だけでなく背景にも見るべきものがあった場合、それらの重心位置が中央にあると安心するようだ。これは人間の視覚が眼球運動でスキャンすることで得られており、その間、頭自体は眼球運動する対象群の平均位置に向こうとするのと関係ありそうだ。上下にはめちゃめちゃ敏感であり、横倒しやさかさまに見るのを極度に嫌がる。もし人類が自由落下状態で進化したら、どのような絵を描くようになるだろうか?

もうひとつ、イメージに対する感性には人によって異なる傾向がある。例えば製作メモ(その3)にも書いたが、日本庭園と西洋式庭園の違いがその典型だ。これは人間の本性に関係があるようで、米国の政治がリベラルと保守にきれいに分かれていることにも関係しているかもしれない。これらは進化心理学や認知神経科学などで解明しようという取組みが盛んだが、ここではこれ以上突っ込まないことにして・・・。

(最初のSSはサンゴ礁のキュレーティングの例(ヤンとビアンカ)。二つ目はsanctuaryにあるIvory City

・・・・・

さて、こうしたイメージの文法から、皆さんの頭の中のイメージで表現しようとするスイッチが入ってくれればいいのだが、そもそも、イメージは言語とは異なるコミュニケーション手段なのだから、それを言語で書けるものだろうか? 「とにかく作ってみるからそれを見て」と言うしかないのではないだろうか?

 もしそれができたら、バーチャル博物館を作ることで、作者と訪問者の間に、なにか国境と時差を越え、時間と空間を越えたコミュニケーションが生まれるかもしれない。言語だけに頼らないでどこまで表現できるか、それに挑戦できるのが仮想空間の醍醐味と思う。