Yan Lauria による投稿

いつも東京カラー印刷を利用しているのですが、入稿原稿のフォント埋め込み等の思わぬチェック漏れによる契約の都度、料金が割り増しになり、また宅配便の到着日時にも不確定性があるので、なかなか締め切りの設定は難しい^^;;

えっ、まだたった3年? という感じです。それだけ中身が濃かった3年だったと思います。

Isek先生が取り組まれてきたことを、私が気づいたことだけでも

・2つのJOGガイドブックの公開

・Varregion

・高品質アバター選択

・使いやすいMoodleポータル

・大勢のアクティブなSLユーザー、クリエータを取り込んだ多様なシムからなるグリッドへの成長

・JOGマネーの導入

・JAMSTECファイヤーウォールからのアクセス

・風の2次元場の実装及びリアルタイムのパラメータ変更

・YouTube全画面表示

・地形図による土地編集と土地テクス

・SLoodleの実装

・・・・・・・

地形図の土地編集とSLoodleはアビスとしても格闘しなきゃと思いつつ、とても追いつけません。

JOGという場で、ほかの住民の皆さんもさまざまな新しい可能性を広げてこられことを思えば、それほど、凄い3年だったと思います。

皆さんがきっと3周年記念イベントを開いてくれると思いますので、その場合は、ぜひJOG成果発表会を企画させてください。

愛にも「理性的な愛」と「感性的な愛」があり、喜びにも「理性的な喜び」と「感性的な喜び」があり、幸せにも「理性的な幸せ」と「感性的な幸せ」がありますよね。

それで行くと「聖なる愛」と「俗な愛」はどちらも理性的な尺度での愛のように思います。絵を見ても理屈っぽい、お説教じみてますよね。

芸術的表現というのは、まずは誰かの作品やパフォーマンスを見聴きして感動する自分という体験が先なのか、それとも自分の作品やパフォーマンスを誰かから賞賛されるという体験が先なのか、よく分からないけれど、感動する体験を持つ自分が賞賛される快感を一度体験すると、再び賞賛されたい、もっと賞賛されたいと思う。

そのために、自分の感動する体験/賞賛される体験を元に、意図的/計算し、模倣又は改変し、人を感動させそうな作品・パフォーマンスを生もうとするが、ひとたび作品・パフォーマンスとして形を成すと、意図どおりの美もあれば、意図しない美も表れることがある。つまり形にするとそれが一人歩きして、意図どおり、または意図しない価値が生まれればそれが生き残り、そんな価値のない駄作であれば忘れ去られる。

そういう表現者と鑑賞者の相互作用としての芸術のプロセス自体は「理性的な美」か「感性的な美」かということとは無関係な気がする。意図した/計算した美が理性的でもあれば感性的でもありうる。

とりあえず、「論理で考える美」か、「本能で感じる美」というのが、そもそも人間にとって存在するような気がしますが、どうでしょう?

タネ明しすると、最初の頃は、私とコメットさんとで作った近代博物館のすぐ上にもとちゃ美術館があり、テキスチャの読み込み時間を考えて、2つの美術館は作品が同じで、並べ方だけが違うものでした。できるだけ多くの画家をカバーできるよう、1人の画家の一つの作風につき1作品と決めていたので、作風が何度か変わったピカソは4作品選んでありますが、たいていの画家は1作品だけです。

その選び方は、代表的な作品、つまり、Wikipediaに載っている作品の中でいかにも代表的に扱われていそうなものを意識的に選んでいます。自分の好みで選ぶと、きれーなねーちゃんに偏ってしまって、科学技術や社会とのインタラクションなど分からなくなってしまいそうだからです。

とはいえ、単なる教育施設でとどまらず、ルーブル美術館を超えたいという欲もありますから、自分の好みを抑えつつ、こちらの方が来場者がもう一度見に来たいと思うんじゃないかと思える絵を選んでいる場合も少なくありません。

もとちゃ美術館には私が選ばなかった画家の作品が数多く追加されていますが、ミュシャについては、スラブ叙事詩を知らなかったからか、私の選んだジャンヌダルクで構わなかったのかもしれません。今思えば、出生作の「ジスモンダ」ポスターを選ぶべきだったのでしょうが、Wikipediaの中でジャンヌダルクの方が、はっと驚くような表情としぐさが感情表現豊かで、それ以前の作品にはなく際立っているように思えたからかもしれません。

リトグラフか油彩かはネット上で見る限り、私には区別が付かなかったので、あえて油彩を選んだわけではありません。自分の好みで選べば、「四つの夜―月」か、いずさんがミュシャ展示ポスターに使ったミュシャの娘の絵(The Slav Epic)でしょう。堺ミュシャ館でThe Slav Epicを目の前にした時は盗みたいという衝動に苛まれました^^;

「理性的な美」vs「感性的な美」という尺度について、私自身が「理性的な美」を理解できている自信がないし、美術館全体で「感性的な美」に偏っている恐れがありますが、もとちゃさんは結構、「理性的な美」を追加している気もします。

ということで「理性的な美」っていったいなんなんだろう?

古代ギリシアは彫像しか残っていないし、古代ローマは彫像以外に、ポンペイのフレスコ画はけっこう享楽的でもあるので、清廉潔白なのは古代ギリシアだけってことですかね。ギリシア神話自体は享楽的なところもあるので、果たして真実はどうだったんでしょう?

奴隷のおかげで優雅に暮らせていて、それで理性的なライフスタイルを楽しむことができたのかもしれません。あるいはアトランティス超古代文明の末裔の影響とか^^;;

洞窟芸術、アポリジニ・アート、アフリカン・アートを見れば、人間本来はSymbolicな表現もPhoto Realisticな表現も、両刀使いだったところ、

西欧の芸術がバロック、ルネサンスから印象派まで、あれだけ長く”Photo Realistic”に偏り続けた方が不思議なぐらいです。もし写真機が発明されなければ、どこまで続いたんでしょう? 多神教であるギリシア神話を文化の基礎としていた古代ギリシアの芸術はもっと多様性が豊かだったかもしれないのに、キリスト教世界は古代ギリシアの発掘物だけ見て清廉潔白と信じて手本にしちゃったとか?^^;;