出雲大社建設計画

出雲大社建設計画

- Shinobar Martinek の投稿
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古代日本の壮大な建物である出雲大社に興味を持ち、建設を思い立ちました。

現在の出雲大社は地上高24mで、これでも壮大ですが、昔(平安〜鎌倉?)には現在の倍、48mであったそうです。当時の、また現在世界最大の木造建築物である奈良の大仏殿より高かったというから驚きです。2000年、その遺構(根柱跡)が発掘されたことから、それは本当だということになり、大林組などが想像で復元し、その1/10模型が公開されています。

しかし社伝によると、創建時の大きさは、そのさらに倍の96mだったということです。

それがいったいどのようなものだったのか、仮想世界なら作れるだろうということで、現在 Shinobar North でその復元を試みています。(大林組などの復元は平安〜鎌倉時代を想定。私が復元しようとするのは弥生末期。)

発掘された根柱は直径 1.4m のスギ丸太を3本束ねたもの。仮想世界での再現も、これと同じようにしますが、長さは90mです。途中で中継ぎすることで、これは作れるかもしれません。いま、それを9セット立ててみました(当時の技術でどういう方法で立てるかは不問)。

しかし、見るからに危うい。地中6m埋め込んでいる想定ですが、とても自立しそうにない。途中に桁を入れることでいくぶん補強できるかもしれません。まずは土台作りでしばし悪戦苦闘しそうではあります。

参考ページ: 出雲の弥生文化の源流を訪ねる

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棟上げ: 出雲大社

- Shinobar Martinek の投稿

ようやく棟上げに漕ぎ付けました。このあと屋根を葺いていきます。桧皮にするか茅葺きにするか迷い中。

支柱はその周囲を囲む桁を数ヶ所設置し、自立するかもしれない形に。この組物の留め構造は保留です。柱3本を束ねるのに金輪をつかっているので、ここも金属部品を使っていてもよさそうに思えます。

この支柱は社までの通し柱ではなく台座を支えるだけのもので、社はこの台座の上に載せる格好にしました。

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大黒柱

- Shinobar Martinek の投稿

「一家を支える大黒柱」の語源は大国主命すなわち出雲大社の中心柱。岩根御柱と言うそうです。ちなみに神様を一柱、二柱と数えるのもここから来ているのでしょう。

再現中の出雲大社の棟は両端2本の棟持ち柱が支えており、中心柱にその機能はありません。伊勢神宮でこの柱は床下にあるので、本来は「縁の下の力持ち」なのでしょう。再現中の出雲大社で社殿中にあるこの中心柱は、これから作る室内の壁を支えるだけのもので、何とも不思議な存在です。

ちなみに、両端2本の棟持ち柱は、やや内側に傾けて強度をましています。伊勢神宮の社殿を参考にしました。

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妻入りと平入り

- Shinobar Martinek の投稿

切妻屋根に対して入り口がどの方向にあるかで、「妻入り」と「平入り」とに分かれます。伊勢神宮など多くの神社が「平入り」なのに対して、出雲大社は「妻入り」であることはよく知られています。

ところがですね。出雲大社本殿の内部にもうひとつ社殿があります。内殿と言うそうです。いわば入れ子状態。仏壇の中に宮殿のような細工がある、そのようなものなのでしょう。ところで、この内殿は「平入り」になっています。

出雲大社は「妻入り」であって「平入り」でもある。なんとも不思議なのです。ちなみに本殿は南向きですが、内殿は西向きです。

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Re: 出雲大社建設計画

- Yan Lauria の投稿

参考ページの想像図と復元模型を見ましたが、びっくりです!

あれが自然災害の多い日本で工学的に成立するのか違和感ありすぎですね。

あの階段が正面以外の3方向にも付いてるとか^^; 

もしそうなら柱の遺構が3方向にも見つかるはずなので、そうじゃないんでしょうけど、引っかかる^^;

Yan Lauria への返信

Re: 出雲大社建設計画

- Shinobar Martinek の投稿

> あれが自然災害の多い日本で工学的に成立するのか違和感ありすぎですね。

ですよねえ。

じつを言うと、平安〜鎌倉にかけて建っていたという 48m高の出雲大社は、しょっちゅう倒れています。地震や台風などなくて自然崩壊と思われるものもあります。

社伝では創建時96m高→(平安〜鎌倉)48m→(江戸時代再建)24m とのこと。

しっさいは当初 96m高で建てようとしたが失敗し、48mで建てたがしょっちゅう倒れるので、けっきょくは現在の24mに落ちついた。と、いうところではないかと想像します。

Shinobar North で創建時96m高の想像復元をやってみましたが、とてもまともに立っておられるとは思えない。なんとか立っていたとしても、ちょっとした風で大きく揺れて、本殿上では生きた心地しないのではないかと思われます。

ただ、私たちの想像を超える技術が古代にあったかもしれません。出雲大社の想像復元も手がけた大林組が、「もし現代の技術でピラミッドをつくるとすれば」というテーマで検討したものがあります。それによれば最後の数段の石積みが問題で、狭くて重機が入れらない。しかたがないので、そこはヘリコプターによることにしたが、頂上の大石は民間のヘリでは無理で、軍用の大型ヘリを借りるというのが結論でした。なんか、笑えません?

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神無月

- Shinobar Martinek の投稿

旧暦10月は神無月。全国の神様が出雲に集まるので、神が不在となる。逆に出雲では神在月と言う。

有名な話ですが、何で10月なのだろうか? 神様たちは出雲に集まって、何をするんだろうか?

神様は日照りや長雨から稲作を守るのが主な仕事ですから、稲刈りが終わると用済みになる。いわば季節労働者なんです。さらに、昔の神殿は倉庫と兼用していました。稲刈りが終わると、翌年のための種籾を倉庫に保管するので、次の種蒔きまで倉庫が一杯で、神様は10月にレイオフされるとともに、住居さえ無くなります。ですから神の不在は10月だけではありませんが、それが始まる10月を神無月と呼んだのでしょう。

そのような神様の失業対策として出雲大社の建築事業がありました。地元で失業中の神様は出雲へ出稼ぎに行きました。行かなかった神様もいます。たとえば恵比寿さんは漁業が生業ですのでレイオフには遭わず、地元に残ります。

神々は出雲に集まって縁結びの相談をするのだというロマンをお抱きの方には失礼。以上は私の妄想です。出雲国風土記の中に出雲大社(杵築の社)に関連する次の記載があります。

『郡役所の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌ)が国引きをなさった後に、天の下をお造りになった大神の宮をお造り申し上げようとして、もろもろの神々たちが宮殿の場所に集まって地面を突き固め(きづき)なさった。だから、寸付(きづき)という。』(荻原千鶴訳)

Shinobar North で再現中の出雲大社の基礎部分。SSでは石畳の上に柱が立っているようにも見えますが、そうではありません。地中深く掘って柱を立て、柱の周囲に土を戻し、その上に石を置いて突き固めます。この作業を神々がやったのだろうか。

地表に石を並べるのは土を固めるためとともに、水はけのためでもあります。柱の根本での腐敗を防ぐためです。

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こち亀と出雲

- Shinobar Martinek の投稿

「亀有」とは珍しい地名だなあと、かねてより思っていました。今回、出雲大社を調べているうちに亀有と出雲の間に深い関係のあることを発見しました。神在月の話ついでに。

『こち亀』と縁の深い亀有香澄大社。ここの御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。出雲を舞台とした国譲り神話で天津神の側の主役を演じる神様です。
参考ページ:香取神社の両さん

いっぽう、出雲国総社の社紋は、二重亀甲に「有」の文字。
参考ページ:亀甲紋のブログ

二重亀甲に有文字紋

出雲大社の現在の社紋はこれとは違っていますが、かってはこの二重亀甲に有文字紋も使われていたそうです。「神在り」が「亀有り」に。これで、なんとか亀有と出雲が繋がったようではありませんか。ま、話のタネに。

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Re: こち亀と出雲

- Shinobar Martinek の投稿
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大仏を作ったのは誰?

- Shinobar Martinek の投稿

古代の出雲大社と並び称される巨大建造物、奈良の大仏さま。この大仏を作らせたのは誰か、みなさんご存じですか?

江戸は元禄、大仏を作ったのは将軍綱吉です。

大仏を最初に作ったのは天平の頃、聖武天皇でした。その後何度も焼け落ちて、大きくは鎌倉時代と江戸時代の再建を経て、現在の姿となっています。

参考ページ:創建時の大仏殿は、もっと大きかった

このような事情は大仏に限らず、私たちが古い社寺を目の前にして、古代を見ていると思っていても、それは江戸時代の建築を見ていることが多いのです。それらからじっさいの古代を想像することは、かなり困難な作業となります。

いま古代の出雲大社の復元を試みている私も、大きな間違いをしているかもしれません。奈良の大仏と同様に、出雲大社も鎌倉時代と江戸時代の再建を経ています。2000年に発見された古代出雲大社の遺構は、鎌倉初期のものと推定されています。これが出雲国造家に伝わる設計図と一致しているといっても、しょせんそれは鎌倉時代のものなのでしょう。

私の意図は創建時代の出雲大社の復元でした。その「創建時代」が何時のことなのかがはっきりしません。日本書紀や古事記など(以下「記紀」)で再三触れられていることから、少なくとも記紀の成立期である8世紀には巨大な出雲大社があったはずです。その8世紀の出雲大社は誰が建てたものなのでしょう?

記紀によれば、大和朝廷あるいは神話時代の天津神が建てたということですが、記紀の成立時期より前の事柄ですから信用なりません。

出雲国造家にしても、出雲大社の祭祀を任されたというだけで、創建時の出雲大社造営に関わっていたのかどうかは怪しいものです。ですから出雲国造家所蔵の設計図にこだわる必要はありません。

より古い形として伊勢神宮などを参考にしてきましたが、それと同じ文化が出雲大社を作ったのかどうかも怪しい。

8世紀にはあったはずの巨大な出雲大社。誰がどういう技術や文化を背景にそれを作ったのか。もっと柔軟に考えなければならないと思っています。

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出雲大社は何時、どんな技術で創られた?

- Shinobar Martinek の投稿

> 8世紀にはあったはずの巨大な出雲大社。誰がどういう技術や文化を背景にそれを作ったのか。

時期についての私見を言えば、3世紀ごろと思います。

いつの時代にも権力者は巨大建造物を作ろうとする。大仏もその例ですが、7世紀以降は主に寺院がその対象でした。その前は巨大古墳。そうすると、巨大な神社を作ろうと考えるのは、巨大古墳以前の3世紀ごろではないかと。

3世紀の出雲に強力な権力があったかというと、あったらしい。記紀によれば出雲大社の創建は国譲り神話の後ということになっていますが、私は「国譲り」以前ではないかと思っています。

そのころ使える資源や技術はというと、出雲は日本海沿岸や朝鮮半島、あるいは北九州と交流があったと思われます。

日本という国は万世一系とか単一民族というのは怪しいにしても、1万年ほど前の縄文時代から現代に至るまで、いろいろな文化が流入しているにしても、過去の文化も継承しながらほぼ同じ言語を話してきた、世界に稀な民族です。技術の継承で言えば漆塗りは縄文時代の日本列島に発祥し、現在に至るまで継承されています。

しかし、3世紀にあった巨大木造建築技術が、その後忘れられた可能性もあります。もうひとつ気になるのは銅鐸です。銅鐸は3世紀前後に畿内を中心に出雲にもありますが、その後突然姿を消します。流行り廃りはあるでしょう。しかし、伝承がまったく残っていない。8世紀に偶然発見されたときに、誰もそれが何か分からなかったといいます。また、銅鐸製作の技術は極めて高度なのに、それを受け継いだものが見当たらない。技術の断絶が見られます。

銅鐸は中空の鋳物ですが、普通にこれを作る方法を考えると、まず中型を造り、それに肉を乗せて原型を作り、それを砂に押し付けて型取り外型とする、砂型による方法が常識です。昔はそう説明されていました。ところが1980年代に石型が発見されたから、たいへん。現在もこれを作る技術がよく分かっていません。

 

 

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電柱の金属キャップ

- Shinobar Martinek の投稿

> 私たちが古い社寺を目の前にして、古代を見ていると思っていても、それは江戸時代の建築を見ていることが多いのです。それらからじっさいの古代を想像することは、かなり困難な作業となります。

再現しようとする出雲大社は地面に穴を掘り、柱の根本をそこに埋める、掘っ立て柱によるものです。問題は柱が腐る。伊勢神宮はそのために20年ごとに建て替えをします。

しかし巨大建築となると、そうそう頻繁に建て替えもできませんので、耐久性を確保しなければなりません。掘っ立て柱に耐久性を持たせる工夫は、木製電柱にあります。

木は乾いた状態や水中では腐りません。問題は水と空気のあるところ、根本の部分です。昔から寺院や、現在の木造建築は地面に接する部分に礎石やコンクリートの基礎を置き、それを避けています。

掘っ立て柱である木製電柱では、地中に埋める所から地表に出る部分数十センチまでをクレオソートなどの防腐剤を含浸し、あと柱頭に金属キャップを被せます。木口から雨水が浸透するのを防ぐためです。この木口を塞ぐキャップをデザイン化したものが擬宝珠(ギボシ)となります。

表に出て電柱を眺めてみました。もちろん木製の電柱など無く、すべてコンクリート製です。しかし、見上げると発見しました。コンクリート電柱であっても、柱頭には金属キャップが被せてあるではありませんか。じつはコンクリートも水には弱いのです。まして雨水はやや酸性ですから。地中に埋まる部分もたぶんなんらかの防水処理をしているはずです。

このように、材質は変わっても、また技術が変わっても、昔の技術の痕跡を発見することもできます。なので、神社の鳥居を観察してみました。いまどき地中に埋め込むものはありません。礎石の上に鳥居は立っています。白木のものもありますが、朱塗りのものもあります。(写真は伏見稲荷)

じつは出雲大社敷地内から発掘された鎌倉時代の柱の遺構は朱塗りだったそうです。彩りもありますが、防腐を意図したかもしれません。ただ、安易に入手できるベンガラ(酸化鉄)での防腐作用はあまりありません。水銀朱ならなら効果は高いでしょう。伊勢地方には辰砂が産出します。

朱塗りの鳥居で根本だけ黒く塗っているものがあります。これは何を意味するのでしょう。もっとも腐りやすい根本を護るための、別の防腐剤でしょうか?それとも金属の輪で補強しようとしたものでしょうか?

黒い防腐剤としては、アスファルトが考えられます。日本国内でも新潟県内などで天然アスファルトを産出します。石油の揮発成分が気化した残滓です。縄文時代に接着剤として使われていました。いっそのこと、基礎固めにも使えたかもしれませんね。

Yan Lauria への返信

岩根御柱

- Shinobar Martinek の投稿

> あの階段が正面以外の3方向にも付いてるとか^^; 
> もしそうなら柱の遺構が3方向にも見つかるはずなので、そうじゃないんでしょうけど、引っかかる^^;

遺構が出てきたのが現在ある出雲大社の境内なので、広範囲には掘れず、階段部分の遺構は出てませんし、今後も出てこないかもしれません。

階段部分は出雲国造家初伝の平面図から想像されたものです。引橋の長さ約100mと書かれていました。これを水平距離100mと解釈したのが大林組のチームで、私も当初そう思っていました。しかし復元模型にある、あの長いスロープには違和感ありました。社殿よりも階段のほうが目立ちすぎ。

もしかすると引橋長一町(約100m)は水平距離ではなく、梯子の長さではないか。そう思ってみました。本殿を支える主柱の高さが約80mで、掛かる梯子の長さが100mならば、斜め60°くらいに立て掛ければつじつまが合います。この急角度を登るのはたいへんだということはさておき、全体の格好としては、そのほうが体裁よくないですか。(ついでに朱塗りにしました。)

 

強度的にもそのほうが良さそうです。本殿48m高に超長い階段を付けた形を考えた大林組チームも、強度上の問題が階段部分にあると考察しています。それは、地盤の問題です。

出雲大社本殿遺構の周辺は数m掘れば堅い地盤に届くものの、階段(があったかもしれない)部分はかなり掘っても地盤が弱いことがボーリング調査によって分かっています。平安〜鎌倉の時代に頻繁に倒壊したのは本殿部分に問題があったのではなく、階段部分の地盤沈下が原因であったのではと、大林組チームは推論しています。
参考ページ:出雲大社の構造解析 

『古事記』に書かれている、スサノヲがオオクニヌシに投げかけた言葉があります。
「宇迦の山のふもとに、土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を太々と突き立てて、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳(そび)やかして住まうのだ」(三浦佑之現代語訳)
参考ページ:どれが本当の出雲大社かの謎

前出の平面図で本殿の中心柱は「岩根御柱」と称されています。スサノヲのアドバイスにしたがって、岩盤=岩根にまで届かせているのでしょう。しかし階段部分について、平安〜鎌倉の時代に再建した人々はスサノオの助言を忘れていたのかもしれません。

 

 

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ハリーポッターの部屋

- Shinobar Martinek の投稿

正面階段は約100mの梯子を60°の急角度で立て掛けたものとしました。これを登るのはたいへんだというので、正面階段に加えて内階段を作ってみました。

地震のときに家の中では階段下か階段近くがいちばん安全だという話を聞きます。この内階段を付けることで、柱の耐震性も増したのではないかと。

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大仏殿の柱

- Shinobar Martinek の投稿

出雲大社境内で発掘された根柱は直径 1.4m のスギ丸太を3本束ねたものでした。出雲国造家に伝わる『金輪御造営指図』と一致している。これを参考に大林組チームなどが48m高の社殿を想像復元した。しかし、発掘された遺構は鎌倉時代のものです。私が Shinobar North で復元しようとするのは太古(3世紀ごろを想定)のものですから、これに拘る必要はありません。

3本の柱を束ねて金輪で縛るという形には違和感があります。奈良の大仏殿の柱も金輪を用い、中心柱を板で取り巻く集合材を使っています。これは江戸時代の再建時に大きな材木が入手できなかったための策です。出雲大社も同様の事情で、鎌倉時代の再建時に3本を束ねる手段を用いたのではないでしょうか。

日本で7〜8世紀に大規模木造建築ラッシュがあり、多くの用材が伐採されてしまいました。それより前なら、国内に巨木もたくさんあったかもしれません。3本束ねではなく素直に直径3mの木材もあったかもしれません。
再現中の主柱の長さは地中も含めて 84mです。さすがにこの長さは途中で中継ぎしたかもしれません。そのところは保留です。

朱塗りは保留です。地面付近の防腐としては朱よりもアスファルトが効果的でしょう。

内階段などの構造物と主柱との間は釘も使えたかもしれませんが、ここでは縄で縛ることにしました。京都祇園祭の山鉾の構造も縄で縛ってますね。
出雲風土記の楯縫郡条に次の記載があります。
神魂命(かみむすひ)がおっしゃられたことには、「わたしの十分に足り整っている天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の規模が、千尋(ちひろ)もある長い拷紲(たくなわ)を使い、桁梁(けたはり)を何回も何回もしっかり結び、たくさん結び下げて作ってあるのと同じように、この天御鳥命(あめのみとり)を楯部として天から下しなさった。

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鳥居って

- Shinobar Martinek の投稿

鳥が居るから「鳥居」なのかなあ。

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Re: 鳥居って

- Destiny ikim の投稿

神様の遣いの鳥(鳳凰でしたかしら)がとまるから…

と言ったお話を聞いたことがあった様な無かった様な…

(;´∀`)

Destiny ikim への返信

Re: 鳥居って

- Shinobar Martinek の投稿

出雲は白鳥と縁があるそうです。

古事記は、垂仁天皇の御子(みこ)ホムチワケ(本牟智和気)が大人になるまで言葉が話せず、白鳥の声を聞いて初めて言葉を発した逸話を記す。天皇の夢占いで、出雲大神が自分を祭る神殿を天皇の宮殿のように立派にすれば、ホムチワケは話せるようになると告げる。早速、御子が出雲に行きオオクニヌシの仮殿を伴う祭場を造ると話せるようになり、天皇はようやく出雲に宮を造営させた。

他方、日本書紀は御子を「ホムツワケ(誉津別)」とし、出雲で捕らえられた白鳥を得ることで話せるようになったと記載する。

参考ページ:  言葉を話せない御子(出雲市)

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Re: 大仏殿の柱

- Yan Lauria の投稿

斜めに立てかけた長大なはしごよりは、内階段の方が自然な気がします。

そもそも、建物というのは、最上階に昇るための階段というものがそれなりのウエイトを占めているというか、使いやすさからいって建物と階段がもうちょっと一体的にデザインされそうな。つまり、高くしようとすればするだけ、ピラミッドのように裾野が広がっていくのが普通のところ、現代の高層ビルみたいなのがどんと立って、その最上階と地面を結ぶかのように階段を付け足したような外観はなかなか気持ち悪いです^^;;

普通の住居と違って神が住む場所だから、地上とは隔絶したデザインにしたかったのだろうとは思いますが。

Shinobarの考察、凄いと思います。これ、情報考古学学会で発表すると面白そうな。JOGには情報考古学会の理事の廣田さんも参加していることですし。

アバターが居る3D環境が本当にありえた過去を「復元」する強力な手段というデモになると思います。いろんな専門分野の人がアバターになってJOGでこのこの不可解な古代出雲大社を見上げれば、誰かが何か思いつくかもしれないし。

とにかく、大工がいきなり古代出雲大社を建て、いや、やっぱり壊れてしまったかと、だんだん高さを下げていったというよりは、大工が自分(と自分が率いる人夫)で建てた実績をスケールアップしていって経験を積み重ねるという過程をそれなりに経たのではないかと思うと、もっと自然な解がどこか別のところにあるような気がするんですが・・・。

Yan Lauria への返信

観音開き

- Shinobar Martinek の投稿

Yanさん、ご興味いただきありがとうございます。「情報考古学学会」ですか、初耳ですが、面白そうですね。こちらですか→ http://www.archaeo-info.org/

太古の出雲大社の想像復元は、ほんの思いつきではじめたものですが、考えれば考えるほど不思議であるとともに、面白くあります。


さて、表題の件です。いま見る神社の入り口のほとんどは両開き、すなわち観音開きとなっています。「観音開き」はその名前から分かるとおり、7世紀にやってきた寺院建築のものです。私の想定している3世紀ごろのものとしては、かなり違和感があります。
縄文〜弥生の日本の住居の入り口扉は左右に開くのではなく、上方に跳ね上げるのが自然に思えます。現代に見る寺院でも、僧坊などで、また平安時代の神殿造り にも在るものです。扱いやすいように上下2分割するのが普通ですが、それでも大きな扉だとかなり重いものです。撥ね上げて奥にしまいこむ仕掛けもあまり複雑でなく作れます。しかし、大きな扉だとやはり重い。

そんなことを考えていて、ふと考えました。扉はほんとうに要るのだろうかと。2階建ての家屋で2階に出入り口はありません。高層階に出入り口があるのは外階段に通じる非常口や、沖縄でよく見る外階段の場合だけです。

Shinobar Northでいま想像復元中の古代出雲大社は、外階段と内階段の両方を付けています。もし内階段だけにするならば、上がり口を室内床下に作れば(上のSS で内階段は高欄の床に出る)、壁面に扉は必要なくなります。昔の家の屋根裏倉庫に上がる階段がそんな感じです。また縄文〜弥生時代の高床倉庫で床下を出入り口にしたものもあったのではとの論もあります。

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吉栗山

- Shinobar Martinek の投稿

出雲風土記:神門郡条:神門郡の山野 に吉栗山について記載があります。

檜・杉がある。いわゆる所造天下大神の宮(出雲大社)の建材の材木を造る山である。

これにちなみ、杉の木を切り出して運ぶイベントがありました。

参考ページ:吉栗山より御木曳

出雲大社境内から発掘された柱跡は杉材でした。出雲風土記の記載にあるとおり8世紀当時、宮の材は桧が一番で、杉は代替だったようです。Shinobar Northで想像復元中の出雲大社は弥生末期、3世紀ごろを想定しているので、そのころは桧だったでしょう。

しかし、この山の名前が気になります。もしかしたら主柱は栗だったかもしれません。栗はあまり背が高くない木ですが、堅牢で、腐りにくい特長があります。食用になることもあって、縄文時代に重用されました。縄文時代の青森、山内円山遺跡で発見された6本柱跡は栗材でした。弥生時代の大阪、池上曽根遺跡で発掘された大型掘立柱建物遺構は桧材でした。「縄文は栗、弥生は桧」が定番であったようです。

その定番は出雲でも通用するのか、少し議論の余地があります。出雲における縄文→弥生の移行は、両者が混在しながら漸進的、連続的に起こっているようなのです。たとえば縄文時代に珍重された翡翠が勾玉となって、いまでも出雲・玉造温泉のお土産になっていることにも、その一端が現れているのかもしれません。

 

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天孫降臨

- Shinobar Martinek の投稿

だいたい、「天孫降臨」って、おかしくないですか?

ふつう、神様が地上に遣わすとすれば、その子供じゃないですか。世界の神話で孫を遣わしたという話を聞きません。隋に国書を送った倭国王も「天子」を自称しているではないですか。誰から見て孫なのよ?というと、天照大神の孫。どうしてアマテラスが起点なのか、どうして孫なのかという事情は多く議論されているので、ひとつだけ書籍を紹介しておきます。
大山誠一,天孫降臨の夢,2009,日本放送出版協会
参考ページ:読書ノート

その記紀に依っても、アマテラスの孫ニニギより先に地上に降り立った神がいます。イザナギ、イザナミの子、スサノオです。アマテラスの弟にあたります。出雲のあたりに降ってヤマタのオロチを退治したとか。

アマテラスを起点にしても、孫ニニギに先立ち、アマテラスの次男(ニニギの叔父)アメノホヒが出雲に降臨しています。降臨したアメノホヒは大国主に付き従います。
参考ページ:古事記:国譲り - 神奈我良

アメノホヒは、その後の国譲りでは天津神側に付いたらしく、その子孫は現在にも繋がる出雲国造家となり、いま出雲大社の宮司を務めています。(先日、ニニギの子孫にあたる皇室の女性が、ニニギの叔父アメノホヒの子孫である出雲国造家へ嫁いで話題になりましたね。)もともとが天津神側の出自ですから、この国造家の伝承や出雲国風土記も信用しきれません。古代出雲大社は国津神側によって創建されたと、私は想像しているからです。


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熊野諸手船

- Shinobar Martinek の投稿

古事記、日本書紀の国譲り神話の中に「熊野諸手船(くまのもろてせん)」が登場します。なぜ熊野なのかはっきりしませんが、記・紀が成立する8世紀におけるスピードボートといえば、これだったのでしょう。またの名を「天鴿船(あまのはとふね)」だとか。神話にちなみ、美保神社で「青柴垣神事」が行われるそうです。
参考ページ: 青柴垣神事(美保関町観光)

(SSは Shinobar North の想像復元出雲大社)

ところで、鳥取県米子市にある遺跡から弥生時代中期、紀元前後とみられる土器に船とともに高層建物らしき絵が書かれていました。この建物は見張り台かもしれないし、逆に航行する船からは目印となるランドマークタワーの役目をしていたのかもしれません。山陰には高層建物跡らしきものもいくつか見つかっています。古くから高層建物の伝統がありそうです。

稲吉角田出土土器の文様

 参考ページ: 田和山遺跡

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大国主の子孫

- Shinobar Martinek の投稿

大国主の子孫を自称される方が居られます。その方が本を出されているので、図書館で借りてきました。

古事記や日本書紀(記紀)は嘘っぱちだということで、大国主の子孫、向家の伝承が書かれています。弥生時代から大和朝廷成立に至る過程を独自の伝承で、考古学的事実とも整合性があり、たいへん面白く読めます。

私の興味の出雲大社の成立についてです。私にとってショッキングなことが書かれていました。そこには出雲大社(杵築大社)は 716年、奈良時代に創建されたとあります。

記紀や出雲風土記に繰り返し言及されていることから、私は出雲の巨大神殿は記紀成立の時代にすでにあったはずとして、3世紀を巨大神殿の創建時期と想定しました。しかしこの書が言うには、記紀や出雲風土記は、当時の朝廷と出雲国造が口裏を合わせて書かれたものだと。そしてその成立と並行して、新しく出雲大社が創られたと。

となると、何を信じて良いのやら...。

参考文献:斎木雲州、出雲と蘇我王国、大元出版、2012

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Izumo リージョン

- Shinobar Martinek の投稿

時代設定を3世紀、弥生時代末期としてよいのか、8世紀の奈良時代なのか。迷いはありますが、出雲大社の試作段階を終え、Izumo リージョンとしてオープンしました。Shinobar Annexの北隣。Wadatsumiからは北東になります。

Izumo と Shinobar Annexとの間の海には大きな魚が群れを作って並んでいます。その背中を辿れば行き来できるはずですが、ときに事故に遭うこともあります。お気を付けて。

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十九社

- Shinobar Martinek の投稿

出雲に出稼ぎに来られる神々の寄宿舎も、やはり必要ですね。

場所は Izumo リージョンです。検索してお越しください。

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初詣

- Shinobar Martinek の投稿

みなさまのお越しをお待ちしています。

Izumo で検索ください。

 

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因幡のシロウサギ

- Shinobar Martinek の投稿

Izumo について案内するコンシェルジュ(ロボット)を配置しました。 Izumo リージョンではなく、隣接する Shinobar Annex 北端です。

Izumoの説明というより、因幡の素兔(シロウサギ)についてのうんちくを語ってくれます。海賊の話は期待できません。

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謹賀新年

- Shinobar Martinek の投稿

あけましておめでとうございます。

出雲大社では賽銭箱も用意して、みなさまのお越しをお待ちしています。

リージョンは Izumo です。

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Re: 謹賀新年

- Shinobar Martinek の投稿

ただいま Izumoでは、お神酒をお配りしています。なぜ出雲で『北の誉』なの?と訝る方もおられるでしょうが、菰樽はもとちゃさんの遺作。枡酒は私が作りました。