Posts made by Shinobar Martinek

> 8世紀にはあったはずの巨大な出雲大社。誰がどういう技術や文化を背景にそれを作ったのか。

時期についての私見を言えば、3世紀ごろと思います。

いつの時代にも権力者は巨大建造物を作ろうとする。大仏もその例ですが、7世紀以降は主に寺院がその対象でした。その前は巨大古墳。そうすると、巨大な神社を作ろうと考えるのは、巨大古墳以前の3世紀ごろではないかと。

3世紀の出雲に強力な権力があったかというと、あったらしい。記紀によれば出雲大社の創建は国譲り神話の後ということになっていますが、私は「国譲り」以前ではないかと思っています。

そのころ使える資源や技術はというと、出雲は日本海沿岸や朝鮮半島、あるいは北九州と交流があったと思われます。

日本という国は万世一系とか単一民族というのは怪しいにしても、1万年ほど前の縄文時代から現代に至るまで、いろいろな文化が流入しているにしても、過去の文化も継承しながらほぼ同じ言語を話してきた、世界に稀な民族です。技術の継承で言えば漆塗りは縄文時代の日本列島に発祥し、現在に至るまで継承されています。

しかし、3世紀にあった巨大木造建築技術が、その後忘れられた可能性もあります。もうひとつ気になるのは銅鐸です。銅鐸は3世紀前後に畿内を中心に出雲にもありますが、その後突然姿を消します。流行り廃りはあるでしょう。しかし、伝承がまったく残っていない。8世紀に偶然発見されたときに、誰もそれが何か分からなかったといいます。また、銅鐸製作の技術は極めて高度なのに、それを受け継いだものが見当たらない。技術の断絶が見られます。

銅鐸は中空の鋳物ですが、普通にこれを作る方法を考えると、まず中型を造り、それに肉を乗せて原型を作り、それを砂に押し付けて型取り外型とする、砂型による方法が常識です。昔はそう説明されていました。ところが1980年代に石型が発見されたから、たいへん。現在もこれを作る技術がよく分かっていません。

 

 

古代の出雲大社と並び称される巨大建造物、奈良の大仏さま。この大仏を作らせたのは誰か、みなさんご存じですか?

江戸は元禄、大仏を作ったのは将軍綱吉です。

大仏を最初に作ったのは天平の頃、聖武天皇でした。その後何度も焼け落ちて、大きくは鎌倉時代と江戸時代の再建を経て、現在の姿となっています。

参考ページ:創建時の大仏殿は、もっと大きかった

このような事情は大仏に限らず、私たちが古い社寺を目の前にして、古代を見ていると思っていても、それは江戸時代の建築を見ていることが多いのです。それらからじっさいの古代を想像することは、かなり困難な作業となります。

いま古代の出雲大社の復元を試みている私も、大きな間違いをしているかもしれません。奈良の大仏と同様に、出雲大社も鎌倉時代と江戸時代の再建を経ています。2000年に発見された古代出雲大社の遺構は、鎌倉初期のものと推定されています。これが出雲国造家に伝わる設計図と一致しているといっても、しょせんそれは鎌倉時代のものなのでしょう。

私の意図は創建時代の出雲大社の復元でした。その「創建時代」が何時のことなのかがはっきりしません。日本書紀や古事記など(以下「記紀」)で再三触れられていることから、少なくとも記紀の成立期である8世紀には巨大な出雲大社があったはずです。その8世紀の出雲大社は誰が建てたものなのでしょう?

記紀によれば、大和朝廷あるいは神話時代の天津神が建てたということですが、記紀の成立時期より前の事柄ですから信用なりません。

出雲国造家にしても、出雲大社の祭祀を任されたというだけで、創建時の出雲大社造営に関わっていたのかどうかは怪しいものです。ですから出雲国造家所蔵の設計図にこだわる必要はありません。

より古い形として伊勢神宮などを参考にしてきましたが、それと同じ文化が出雲大社を作ったのかどうかも怪しい。

8世紀にはあったはずの巨大な出雲大社。誰がどういう技術や文化を背景にそれを作ったのか。もっと柔軟に考えなければならないと思っています。

「亀有」とは珍しい地名だなあと、かねてより思っていました。今回、出雲大社を調べているうちに亀有と出雲の間に深い関係のあることを発見しました。神在月の話ついでに。

『こち亀』と縁の深い亀有香澄大社。ここの御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。出雲を舞台とした国譲り神話で天津神の側の主役を演じる神様です。
参考ページ:香取神社の両さん

いっぽう、出雲国総社の社紋は、二重亀甲に「有」の文字。
参考ページ:亀甲紋のブログ

二重亀甲に有文字紋

出雲大社の現在の社紋はこれとは違っていますが、かってはこの二重亀甲に有文字紋も使われていたそうです。「神在り」が「亀有り」に。これで、なんとか亀有と出雲が繋がったようではありませんか。ま、話のタネに。

旧暦10月は神無月。全国の神様が出雲に集まるので、神が不在となる。逆に出雲では神在月と言う。

有名な話ですが、何で10月なのだろうか? 神様たちは出雲に集まって、何をするんだろうか?

神様は日照りや長雨から稲作を守るのが主な仕事ですから、稲刈りが終わると用済みになる。いわば季節労働者なんです。さらに、昔の神殿は倉庫と兼用していました。稲刈りが終わると、翌年のための種籾を倉庫に保管するので、次の種蒔きまで倉庫が一杯で、神様は10月にレイオフされるとともに、住居さえ無くなります。ですから神の不在は10月だけではありませんが、それが始まる10月を神無月と呼んだのでしょう。

そのような神様の失業対策として出雲大社の建築事業がありました。地元で失業中の神様は出雲へ出稼ぎに行きました。行かなかった神様もいます。たとえば恵比寿さんは漁業が生業ですのでレイオフには遭わず、地元に残ります。

神々は出雲に集まって縁結びの相談をするのだというロマンをお抱きの方には失礼。以上は私の妄想です。出雲国風土記の中に出雲大社(杵築の社)に関連する次の記載があります。

『郡役所の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌ)が国引きをなさった後に、天の下をお造りになった大神の宮をお造り申し上げようとして、もろもろの神々たちが宮殿の場所に集まって地面を突き固め(きづき)なさった。だから、寸付(きづき)という。』(荻原千鶴訳)

Shinobar North で再現中の出雲大社の基礎部分。SSでは石畳の上に柱が立っているようにも見えますが、そうではありません。地中深く掘って柱を立て、柱の周囲に土を戻し、その上に石を置いて突き固めます。この作業を神々がやったのだろうか。

地表に石を並べるのは土を固めるためとともに、水はけのためでもあります。柱の根本での腐敗を防ぐためです。