Shinobar Martinek による投稿

「亀有」とは珍しい地名だなあと、かねてより思っていました。今回、出雲大社を調べているうちに亀有と出雲の間に深い関係のあることを発見しました。神在月の話ついでに。

『こち亀』と縁の深い亀有香澄大社。ここの御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。出雲を舞台とした国譲り神話で天津神の側の主役を演じる神様です。
参考ページ:香取神社の両さん

いっぽう、出雲国総社の社紋は、二重亀甲に「有」の文字。
参考ページ:亀甲紋のブログ

二重亀甲に有文字紋

出雲大社の現在の社紋はこれとは違っていますが、かってはこの二重亀甲に有文字紋も使われていたそうです。「神在り」が「亀有り」に。これで、なんとか亀有と出雲が繋がったようではありませんか。ま、話のタネに。

旧暦10月は神無月。全国の神様が出雲に集まるので、神が不在となる。逆に出雲では神在月と言う。

有名な話ですが、何で10月なのだろうか? 神様たちは出雲に集まって、何をするんだろうか?

神様は日照りや長雨から稲作を守るのが主な仕事ですから、稲刈りが終わると用済みになる。いわば季節労働者なんです。さらに、昔の神殿は倉庫と兼用していました。稲刈りが終わると、翌年のための種籾を倉庫に保管するので、次の種蒔きまで倉庫が一杯で、神様は10月にレイオフされるとともに、住居さえ無くなります。ですから神の不在は10月だけではありませんが、それが始まる10月を神無月と呼んだのでしょう。

そのような神様の失業対策として出雲大社の建築事業がありました。地元で失業中の神様は出雲へ出稼ぎに行きました。行かなかった神様もいます。たとえば恵比寿さんは漁業が生業ですのでレイオフには遭わず、地元に残ります。

神々は出雲に集まって縁結びの相談をするのだというロマンをお抱きの方には失礼。以上は私の妄想です。出雲国風土記の中に出雲大社(杵築の社)に関連する次の記載があります。

『郡役所の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌ)が国引きをなさった後に、天の下をお造りになった大神の宮をお造り申し上げようとして、もろもろの神々たちが宮殿の場所に集まって地面を突き固め(きづき)なさった。だから、寸付(きづき)という。』(荻原千鶴訳)

Shinobar North で再現中の出雲大社の基礎部分。SSでは石畳の上に柱が立っているようにも見えますが、そうではありません。地中深く掘って柱を立て、柱の周囲に土を戻し、その上に石を置いて突き固めます。この作業を神々がやったのだろうか。

地表に石を並べるのは土を固めるためとともに、水はけのためでもあります。柱の根本での腐敗を防ぐためです。

> あれが自然災害の多い日本で工学的に成立するのか違和感ありすぎですね。

ですよねえ。

じつを言うと、平安〜鎌倉にかけて建っていたという 48m高の出雲大社は、しょっちゅう倒れています。地震や台風などなくて自然崩壊と思われるものもあります。

社伝では創建時96m高→(平安〜鎌倉)48m→(江戸時代再建)24m とのこと。

しっさいは当初 96m高で建てようとしたが失敗し、48mで建てたがしょっちゅう倒れるので、けっきょくは現在の24mに落ちついた。と、いうところではないかと想像します。

Shinobar North で創建時96m高の想像復元をやってみましたが、とてもまともに立っておられるとは思えない。なんとか立っていたとしても、ちょっとした風で大きく揺れて、本殿上では生きた心地しないのではないかと思われます。

ただ、私たちの想像を超える技術が古代にあったかもしれません。出雲大社の想像復元も手がけた大林組が、「もし現代の技術でピラミッドをつくるとすれば」というテーマで検討したものがあります。それによれば最後の数段の石積みが問題で、狭くて重機が入れらない。しかたがないので、そこはヘリコプターによることにしたが、頂上の大石は民間のヘリでは無理で、軍用の大型ヘリを借りるというのが結論でした。なんか、笑えません?

切妻屋根に対して入り口がどの方向にあるかで、「妻入り」と「平入り」とに分かれます。伊勢神宮など多くの神社が「平入り」なのに対して、出雲大社は「妻入り」であることはよく知られています。

ところがですね。出雲大社本殿の内部にもうひとつ社殿があります。内殿と言うそうです。いわば入れ子状態。仏壇の中に宮殿のような細工がある、そのようなものなのでしょう。ところで、この内殿は「平入り」になっています。

出雲大社は「妻入り」であって「平入り」でもある。なんとも不思議なのです。ちなみに本殿は南向きですが、内殿は西向きです。