Shinobar Martinek による投稿

> あの階段が正面以外の3方向にも付いてるとか^^; 
> もしそうなら柱の遺構が3方向にも見つかるはずなので、そうじゃないんでしょうけど、引っかかる^^;

遺構が出てきたのが現在ある出雲大社の境内なので、広範囲には掘れず、階段部分の遺構は出てませんし、今後も出てこないかもしれません。

階段部分は出雲国造家初伝の平面図から想像されたものです。引橋の長さ約100mと書かれていました。これを水平距離100mと解釈したのが大林組のチームで、私も当初そう思っていました。しかし復元模型にある、あの長いスロープには違和感ありました。社殿よりも階段のほうが目立ちすぎ。

もしかすると引橋長一町(約100m)は水平距離ではなく、梯子の長さではないか。そう思ってみました。本殿を支える主柱の高さが約80mで、掛かる梯子の長さが100mならば、斜め60°くらいに立て掛ければつじつまが合います。この急角度を登るのはたいへんだということはさておき、全体の格好としては、そのほうが体裁よくないですか。(ついでに朱塗りにしました。)

 

強度的にもそのほうが良さそうです。本殿48m高に超長い階段を付けた形を考えた大林組チームも、強度上の問題が階段部分にあると考察しています。それは、地盤の問題です。

出雲大社本殿遺構の周辺は数m掘れば堅い地盤に届くものの、階段(があったかもしれない)部分はかなり掘っても地盤が弱いことがボーリング調査によって分かっています。平安〜鎌倉の時代に頻繁に倒壊したのは本殿部分に問題があったのではなく、階段部分の地盤沈下が原因であったのではと、大林組チームは推論しています。
参考ページ:出雲大社の構造解析 

『古事記』に書かれている、スサノヲがオオクニヌシに投げかけた言葉があります。
「宇迦の山のふもとに、土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を太々と突き立てて、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳(そび)やかして住まうのだ」(三浦佑之現代語訳)
参考ページ:どれが本当の出雲大社かの謎

前出の平面図で本殿の中心柱は「岩根御柱」と称されています。スサノヲのアドバイスにしたがって、岩盤=岩根にまで届かせているのでしょう。しかし階段部分について、平安〜鎌倉の時代に再建した人々はスサノオの助言を忘れていたのかもしれません。

 

 

> 私たちが古い社寺を目の前にして、古代を見ていると思っていても、それは江戸時代の建築を見ていることが多いのです。それらからじっさいの古代を想像することは、かなり困難な作業となります。

再現しようとする出雲大社は地面に穴を掘り、柱の根本をそこに埋める、掘っ立て柱によるものです。問題は柱が腐る。伊勢神宮はそのために20年ごとに建て替えをします。

しかし巨大建築となると、そうそう頻繁に建て替えもできませんので、耐久性を確保しなければなりません。掘っ立て柱に耐久性を持たせる工夫は、木製電柱にあります。

木は乾いた状態や水中では腐りません。問題は水と空気のあるところ、根本の部分です。昔から寺院や、現在の木造建築は地面に接する部分に礎石やコンクリートの基礎を置き、それを避けています。

掘っ立て柱である木製電柱では、地中に埋める所から地表に出る部分数十センチまでをクレオソートなどの防腐剤を含浸し、あと柱頭に金属キャップを被せます。木口から雨水が浸透するのを防ぐためです。この木口を塞ぐキャップをデザイン化したものが擬宝珠(ギボシ)となります。

表に出て電柱を眺めてみました。もちろん木製の電柱など無く、すべてコンクリート製です。しかし、見上げると発見しました。コンクリート電柱であっても、柱頭には金属キャップが被せてあるではありませんか。じつはコンクリートも水には弱いのです。まして雨水はやや酸性ですから。地中に埋まる部分もたぶんなんらかの防水処理をしているはずです。

このように、材質は変わっても、また技術が変わっても、昔の技術の痕跡を発見することもできます。なので、神社の鳥居を観察してみました。いまどき地中に埋め込むものはありません。礎石の上に鳥居は立っています。白木のものもありますが、朱塗りのものもあります。(写真は伏見稲荷)

じつは出雲大社敷地内から発掘された鎌倉時代の柱の遺構は朱塗りだったそうです。彩りもありますが、防腐を意図したかもしれません。ただ、安易に入手できるベンガラ(酸化鉄)での防腐作用はあまりありません。水銀朱ならなら効果は高いでしょう。伊勢地方には辰砂が産出します。

朱塗りの鳥居で根本だけ黒く塗っているものがあります。これは何を意味するのでしょう。もっとも腐りやすい根本を護るための、別の防腐剤でしょうか?それとも金属の輪で補強しようとしたものでしょうか?

黒い防腐剤としては、アスファルトが考えられます。日本国内でも新潟県内などで天然アスファルトを産出します。石油の揮発成分が気化した残滓です。縄文時代に接着剤として使われていました。いっそのこと、基礎固めにも使えたかもしれませんね。

> 8世紀にはあったはずの巨大な出雲大社。誰がどういう技術や文化を背景にそれを作ったのか。

時期についての私見を言えば、3世紀ごろと思います。

いつの時代にも権力者は巨大建造物を作ろうとする。大仏もその例ですが、7世紀以降は主に寺院がその対象でした。その前は巨大古墳。そうすると、巨大な神社を作ろうと考えるのは、巨大古墳以前の3世紀ごろではないかと。

3世紀の出雲に強力な権力があったかというと、あったらしい。記紀によれば出雲大社の創建は国譲り神話の後ということになっていますが、私は「国譲り」以前ではないかと思っています。

そのころ使える資源や技術はというと、出雲は日本海沿岸や朝鮮半島、あるいは北九州と交流があったと思われます。

日本という国は万世一系とか単一民族というのは怪しいにしても、1万年ほど前の縄文時代から現代に至るまで、いろいろな文化が流入しているにしても、過去の文化も継承しながらほぼ同じ言語を話してきた、世界に稀な民族です。技術の継承で言えば漆塗りは縄文時代の日本列島に発祥し、現在に至るまで継承されています。

しかし、3世紀にあった巨大木造建築技術が、その後忘れられた可能性もあります。もうひとつ気になるのは銅鐸です。銅鐸は3世紀前後に畿内を中心に出雲にもありますが、その後突然姿を消します。流行り廃りはあるでしょう。しかし、伝承がまったく残っていない。8世紀に偶然発見されたときに、誰もそれが何か分からなかったといいます。また、銅鐸製作の技術は極めて高度なのに、それを受け継いだものが見当たらない。技術の断絶が見られます。

銅鐸は中空の鋳物ですが、普通にこれを作る方法を考えると、まず中型を造り、それに肉を乗せて原型を作り、それを砂に押し付けて型取り外型とする、砂型による方法が常識です。昔はそう説明されていました。ところが1980年代に石型が発見されたから、たいへん。現在もこれを作る技術がよく分かっていません。

 

 

古代の出雲大社と並び称される巨大建造物、奈良の大仏さま。この大仏を作らせたのは誰か、みなさんご存じですか?

江戸は元禄、大仏を作ったのは将軍綱吉です。

大仏を最初に作ったのは天平の頃、聖武天皇でした。その後何度も焼け落ちて、大きくは鎌倉時代と江戸時代の再建を経て、現在の姿となっています。

参考ページ:創建時の大仏殿は、もっと大きかった

このような事情は大仏に限らず、私たちが古い社寺を目の前にして、古代を見ていると思っていても、それは江戸時代の建築を見ていることが多いのです。それらからじっさいの古代を想像することは、かなり困難な作業となります。

いま古代の出雲大社の復元を試みている私も、大きな間違いをしているかもしれません。奈良の大仏と同様に、出雲大社も鎌倉時代と江戸時代の再建を経ています。2000年に発見された古代出雲大社の遺構は、鎌倉初期のものと推定されています。これが出雲国造家に伝わる設計図と一致しているといっても、しょせんそれは鎌倉時代のものなのでしょう。

私の意図は創建時代の出雲大社の復元でした。その「創建時代」が何時のことなのかがはっきりしません。日本書紀や古事記など(以下「記紀」)で再三触れられていることから、少なくとも記紀の成立期である8世紀には巨大な出雲大社があったはずです。その8世紀の出雲大社は誰が建てたものなのでしょう?

記紀によれば、大和朝廷あるいは神話時代の天津神が建てたということですが、記紀の成立時期より前の事柄ですから信用なりません。

出雲国造家にしても、出雲大社の祭祀を任されたというだけで、創建時の出雲大社造営に関わっていたのかどうかは怪しいものです。ですから出雲国造家所蔵の設計図にこだわる必要はありません。

より古い形として伊勢神宮などを参考にしてきましたが、それと同じ文化が出雲大社を作ったのかどうかも怪しい。

8世紀にはあったはずの巨大な出雲大社。誰がどういう技術や文化を背景にそれを作ったのか。もっと柔軟に考えなければならないと思っています。