Shinobar Martinek による投稿

私の経験上で言うと、llSetTimerEvent が動作しないことはままあります。

コンパイル直後には動くんだけど、その後リセットが掛かった後などで動かないことがあります。こんなときに起こりやすいとか、こうすれば起こりにくいとかあるみたいですが、決定的な回避策はよく分かってません。

起こりやすい一つの例は、TimerEventを動かしたまま、llResetScriptを掛けた場合です。それが分かってからは、必ず明示的にllSetTimerEvent(0)で止めてから、かつ数秒置いて llResetScript()を掛けるようにしましたが、これでもダメな場合があるようで…。

最近はリセットを掛ける旨のフラグを立てておいた上で timerイベントが発生させてから llSetTimerEvent(0)で止め、llResetScript()を掛けるという複雑なことをしています。

integer ResetFlg = FALSE;
...
Reset()
{
llSetTimerEvent(0);
ResetFlg = TRUE;
llSetTimerEvent(1.0);
return;
}
...
timer()
{
llSetTimerEvent(0);
if (ResetFlg) llResetScript();
...
}

 

出雲風土記:神門郡条:神門郡の山野 に吉栗山について記載があります。

檜・杉がある。いわゆる所造天下大神の宮(出雲大社)の建材の材木を造る山である。

これにちなみ、杉の木を切り出して運ぶイベントがありました。

参考ページ:吉栗山より御木曳

出雲大社境内から発掘された柱跡は杉材でした。出雲風土記の記載にあるとおり8世紀当時、宮の材は桧が一番で、杉は代替だったようです。Shinobar Northで想像復元中の出雲大社は弥生末期、3世紀ごろを想定しているので、そのころは桧だったでしょう。

しかし、この山の名前が気になります。もしかしたら主柱は栗だったかもしれません。栗はあまり背が高くない木ですが、堅牢で、腐りにくい特長があります。食用になることもあって、縄文時代に重用されました。縄文時代の青森、山内円山遺跡で発見された6本柱跡は栗材でした。弥生時代の大阪、池上曽根遺跡で発掘された大型掘立柱建物遺構は桧材でした。「縄文は栗、弥生は桧」が定番であったようです。

その定番は出雲でも通用するのか、少し議論の余地があります。出雲における縄文→弥生の移行は、両者が混在しながら漸進的、連続的に起こっているようなのです。たとえば縄文時代に珍重された翡翠が勾玉となって、いまでも出雲・玉造温泉のお土産になっていることにも、その一端が現れているのかもしれません。

 

Yanさん、ご興味いただきありがとうございます。「情報考古学学会」ですか、初耳ですが、面白そうですね。こちらですか→ http://www.archaeo-info.org/

太古の出雲大社の想像復元は、ほんの思いつきではじめたものですが、考えれば考えるほど不思議であるとともに、面白くあります。


さて、表題の件です。いま見る神社の入り口のほとんどは両開き、すなわち観音開きとなっています。「観音開き」はその名前から分かるとおり、7世紀にやってきた寺院建築のものです。私の想定している3世紀ごろのものとしては、かなり違和感があります。
縄文〜弥生の日本の住居の入り口扉は左右に開くのではなく、上方に跳ね上げるのが自然に思えます。現代に見る寺院でも、僧坊などで、また平安時代の神殿造り にも在るものです。扱いやすいように上下2分割するのが普通ですが、それでも大きな扉だとかなり重いものです。撥ね上げて奥にしまいこむ仕掛けもあまり複雑でなく作れます。しかし、大きな扉だとやはり重い。

そんなことを考えていて、ふと考えました。扉はほんとうに要るのだろうかと。2階建ての家屋で2階に出入り口はありません。高層階に出入り口があるのは外階段に通じる非常口や、沖縄でよく見る外階段の場合だけです。

Shinobar Northでいま想像復元中の古代出雲大社は、外階段と内階段の両方を付けています。もし内階段だけにするならば、上がり口を室内床下に作れば(上のSS で内階段は高欄の床に出る)、壁面に扉は必要なくなります。昔の家の屋根裏倉庫に上がる階段がそんな感じです。また縄文〜弥生時代の高床倉庫で床下を出入り口にしたものもあったのではとの論もあります。

出雲は白鳥と縁があるそうです。

古事記は、垂仁天皇の御子(みこ)ホムチワケ(本牟智和気)が大人になるまで言葉が話せず、白鳥の声を聞いて初めて言葉を発した逸話を記す。天皇の夢占いで、出雲大神が自分を祭る神殿を天皇の宮殿のように立派にすれば、ホムチワケは話せるようになると告げる。早速、御子が出雲に行きオオクニヌシの仮殿を伴う祭場を造ると話せるようになり、天皇はようやく出雲に宮を造営させた。

他方、日本書紀は御子を「ホムツワケ(誉津別)」とし、出雲で捕らえられた白鳥を得ることで話せるようになったと記載する。

参考ページ:  言葉を話せない御子(出雲市)